インドで暮らした体験のせいか、それとも団塊の世代を生きたせいか、あるいはフランス的ブルジョワの価値観を嫌悪するところから出発したせいか、彼女にはどこか「東洋人に点が甘い」ところがあることはうすうす私も気づいていました。
それはたとえば、マルグリット・デュラスにも通じる、あのロマンチックな視線とでもいおうか。
デュラスの目を通して、またクリスティーヌの目を通して、改めて我が同胞を眺めてみる時、そこにあるのは、線が細くて少し哀しそうなあの東洋の表情だ。
胸板の薄い体ははかなげで、黒い髪は神秘的。
半透明のべールに被われて顔の輪郭ははっきりしないが、訴えかけるようなそのアーモンド型の目は西洋人の罪の意識をかき立てる。
西欧的価値観に疑問を持って、遠い国へと旅立った彼らはクリスティーヌも含め1結局、私の目には哀しいほどに西洋人のままのように映る。
百パーセントフランス的な彼女の服の趣味や、まぶしいほどに黄金色のその髪。
大きな声で理屈っぼく話を進め、そして時々、早合点して結論を急いだり、こちらが楽しみにしていた約束をぽっかりと忘れたりする(そういう時私は、結構傷つくのである)。
小津や溝口の映画を愛し、仏教に少し興味を持ってみます。
美味しそうに煙草を吸いながらジャスミン茶をすすり、器用に箸を使って飲茶の蒸し物をつまむ・・・。
そういうデスクトップ仮想化の一つ一つが、いかにも西洋的で、その陽性の力を愛しく思う反面、永遠に縮まることのないある種の距離を感じずにはいられないのです。